私が富田有紀子さんの存在をはじめて意識したのは、20年くらいも前のことで、そのとき彼女は銀座のとある画廊で色のついた陶器のようなものでインスタレーションをしていた。色彩に独得の鮮やかさがあったのと、ご本人の、別世界の人のようなまったく自由な感じに圧倒されたせいか、その光景は前後の脈絡を欠いたまさに記憶の一断片として頭の片隅に残っている。
富田さんの存在を、次に、そして強く意識したのは「VOCA展’96」のときである(もう10年前だ)。近藤幸夫さんの推薦で、彼女は蓮の花を描いたトリプティク(三副対)を出品し、その現実離れした仏画のような清浄さが魅惑的で奨励賞をえたのだ(あくまでも私見だが、VOCA展はむしろ奨励賞におやっと思う絵が多い)。それは別の富田さんを見るようだったが、彼女がどこか浮世離れした、ひとつの境地に到達しようとしていることは明らかだった。
空とか風景を描きだしたのはいつごろだろう?それらは、いかにも月並な言い方だが、どこにでもあるようで、どこにもない空であり風景だった。まるでこの世と、彼岸ではない、この世を超えた世界との境界もしくは界面のイメージそのものだった。
霊的ともいうべき晴朗な表現を追求していた富田有紀子さんに、新たな展開の訪れを確信させたのは、ギャラリー椿における前回の個展だった。果物を大写しにした同寸の、方形状の絵が所狭しと並んでいる。それらはずっしりとした硬質の陶器のような物体として、ただの果実というよりは、むしろ美しい異物だった。私はいま思わず「美しい」という陳腐きわまりない言葉をつかったが、どうにも他に言いようがない。とにかく、何かきらきらと充実して艶やかなものがそこに、目の前にあるという感じ、熟しきっているのに食べることはできない奇妙な感じなのである。
そして今回の花ばなである。古今東西、花を描いた絵は無数にあるが、ふつうは花束としてある距離をとって、しかも脇から描く。近・現代に話をかぎれば、ルドン晩年の夢幻花はみごとに超現実的なものだが、みな質朴な壺に収まっている。背景との関係を曖昧にすることで、それらは虚空に浮遊するかの印象を与えるが、ここには富田さんの作例に顕著な花弁そのものに肉薄する視点はまったく無い。絶対的なまでの抽象を目ざしたモンドリアンに、いかにも神智学の風味をきかした花の絵で暮らしを立てていた時期があることはあまり知られていないが、その場合でも一輪の花を横から眺める構図に終始している。これがオキーフとなると、かなり様子が変わってきて、花びらの、それ自体はほとんど抽象的な形態を斜め上空から、ある種のダイナミズムをともないつつ、いわば造形的に探索する方向に向かっている。
富田有紀子さんには今までも花の絵の作例がある。しかし、それらは基本的に対象をゆったりと捉えたふつうの構図で描かれていた。ところが、今回いかなる理由からか、すべての花びらに真上から垂直に降下し、接写するかのような構図がとられている。植物図鑑でも見ないかぎり、いわゆる花の絵でこのやり方は実に奇妙である。とはいえ、そうした奇妙さの結果として、見る者と花びらとの不意の一体感が生じ、ここに新しい次元つまり異界への入口が切り開かれていることを見逃すわけにはいかない。
もっとも「異界」とは言っても、だからといってそこに魔物が潜むわけではない。それはむしろ、実と虚の関係にもひとしい、富田さん自身の外部にたいする内部空間と言い換えてもいいものだ。花びらの絶対的な対象性に作者とともに急接近することで、私たちがほんとうに見ているのは、外部の客観的な花ではない。内なる、永遠の花の反映なのである。そこに富田有紀子さんの「花」の安らぎの秘密がある。私たちには、私たちに見えるものしか見えないのである。(2006)