富田の作品を最近みはじめた人はこれら花の絵をどのように解釈するのだろう。花を描いているからオキーフ?大画面に詳細に描いているからハイパーリアリズム?おそらく私も初見で富田の作品をみたらこの辺から解説を書き始めたことだろう。
すでに他のところで何回も書いてきたが富田が作家活動を始めるのは1980年代半ば、当時全盛であったインスタレーション作品であった。その後さまざまな素材による実験をへて1990年代に平面へとたどり着く。いや「たどり着く」という表現は適切でない。むしろ「回帰する」というべきだろう。もともとこの作家の持っているテーマは絵画で表現されるべきものだった。他の可能性をすべて試し潰した後で絵画へと戻っていたよう感じられる。
富田が執着するテーマとは何か、それは特徴的なひとつの形態である。内圧が上昇して最後に弾けるように内部空間をさらす形、豊かな内部空間と外部の空間の緊張した関係、これらが常に富田の頭の中にあったヴィジョンである。それを三次元空間のなかで彫刻やオブジェによって表そうとしたのが初期の段階であり、ヴィジョンである限り絵画空間で表す方がふさわしいと考えるようになったのがその後の展開である。最初は抽象的な表現によってそれは表されていた。しかし、描き込んでいくうちにリアリティがないと感じられたのではないだろうか。富田は「無性に油絵らしい絵が描きたくなった」と言って現実の風景や植物を描き始める。この作家は言葉によってコンセプトを語ることがひどく苦手なようだ。いつも直感的で、理屈抜きに描きたいという欲求がわいてきて制作する。最初、植物は葉を含めて全体が描かれていたが、徐々にズームするように花だけが描かれるようになる。それと平行するように果実もモチーフとして重要な位置を占めるようになってくる。果実は常に蔕(へた)や下方からみた方向で描かれ横から描かれることはほとんどない。このころから富田は人間、特に女性のぱんと張ったお尻が描きたいとも言うようになった。今回の作品をみると、画面はさらにズームされてダリアの花の芯の部分のみが描かれている。それは吸い込まれるかのような迫力がある。私はこの作品を見ていて、ふとイソギンチャクのような腔腸類の形を思い出した。内空間と外部空間が接する開口部の形、それは生物に共通した形ということができよう。微生物から私たちの体まで、いやそれは生物に限ったものではない。水流、大気の対流から磁力線あるいは宇宙の構造まで似たような形が現れてくるのではないだろうか。これこそが富田のヴィジョンが現実の世界の中で形となったものなのだろう。富田の求めるリアリティは花という「もの」のリアリティではない。「もの」の向こう側に突き抜けたリアリティといえるだろう。のこの強烈なダリアのためか、これまでさかんに描かれた石榴は役目を終えたように割れて中身の果肉をさらけだす。果肉は粒であり、それは富田の最近のモチーフであるイクラと似ている。これらもまた内部に小宇宙をもった張り詰めた形であり、いつか弾けるかもしれない。そのような永遠の入れ子構造を考えたとき私は軽い目眩にも似た感覚を覚えた。(2010)